<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
		<id>http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E5%90%B9%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6</id>
		<title>吹田事件 - 変更履歴</title>
		<link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E5%90%B9%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6"/>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?title=%E5%90%B9%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;action=history"/>
		<updated>2026-04-23T00:33:50Z</updated>
		<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
		<generator>MediaWiki 1.25.1</generator>

	<entry>
		<id>http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?title=%E5%90%B9%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=58999&amp;oldid=prev</id>
		<title>Fromm: 新しいページ: ''''吹田事件'''（すいたじけん）  *1880年に大阪府吹田市で訪日中のプロイセン王族を殴打した事件。 *1952年に大阪府...'</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?title=%E5%90%B9%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=58999&amp;oldid=prev"/>
				<updated>2009-10-11T18:21:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;新しいページ: &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;吹田事件&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（すいたじけん）  *&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=1880%E5%B9%B4&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;1880年 (存在しないページ)&quot;&gt;1880年&lt;/a&gt;に&lt;a href=&quot;/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C&quot; title=&quot;大阪府&quot;&gt;大阪府&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E5%90%B9%E7%94%B0%E5%B8%82&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;吹田市 (存在しないページ)&quot;&gt;吹田市&lt;/a&gt;で訪日中の&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;プロイセン (存在しないページ)&quot;&gt;プロイセン&lt;/a&gt;王族を殴打した事件。 *&lt;a href=&quot;/wiki/1952%E5%B9%B4&quot; title=&quot;1952年&quot;&gt;1952年&lt;/a&gt;に大阪府...&amp;#039;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''吹田事件'''（すいたじけん）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1880年]]に[[大阪府]][[吹田市]]で訪日中の[[プロイセン]]王族を殴打した事件。&lt;br /&gt;
*[[1952年]]に大阪府吹田市で発生した騒乱事件。本項ではこちらの事件について記す。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
[[1952年]]の'''吹田事件'''（すいたじけん）とは、1952年[[6月24日]]から[[6月25日]]にかけて、大阪府吹田市・[[豊中市]]一帯で発生した'''吹田騒擾事件'''と、その裁判で起きた事件（'''吹田黙祷事件'''）の両方を指して吹田事件という。ただし吹田騒擾事件のみを指して吹田事件とする場合もあり、定まっていない。同年に起こった'''[[血のメーデー事件]]'''、'''[[大須事件]]'''と並んで'''三大騒擾事件'''の一つとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件の背景 ==&lt;br /&gt;
[[1950年]][[6月25日]]に[[朝鮮戦争]]が勃発した。当初戦況は[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が優位であったが、[[仁川上陸作戦]]で戦局が一変、逆に[[大韓民国|韓国]]優位となり、[[韓国軍]]の一部は[[鴨緑江]]に到達したが、[[中国人民志願軍]]によって[[38度線]]に押し戻され、一進一退の膠着状態が続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の日本はアメリカの占領下にあったため米軍は日本を兵站基地として朝鮮半島への軍事作戦を展開していた。またアメリカは、日本政府に対し飛行場の利用や軍需物資の調達、兵士の日本での訓練を要請した。首相の[[吉田茂]]は「これに協力することはきわめて当然」と述べ、積極的にアメリカへの支援を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吹田事件の舞台となった[[大阪大学]]豊中キャンパス周辺には米軍の刀根山キャンプがあり、米兵が駐留していた。また[[吹田市]]では[[日本国有鉄道|国鉄]][[吹田信号場|吹田操車場]]から連日、米軍への支援物資を乗せた貨物列車が編成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北朝鮮系の[[在日コリアン|在日朝鮮人]]は、[[朝鮮人民軍|北朝鮮軍]]を支援すべく、日本各地で反米・反戦運動を起こしていた。当時、武装闘争路線を掲げていた日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに同調していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件の概要 ==&lt;br /&gt;
[[1952年]][[6月24日]]夕方、大阪府[[豊中市]]にある大阪大学豊中キャンパスで「'''伊丹基地粉砕・反戦独立の夕'''」が大阪府学生自治会連合によって開催された。学生、労働者、農民、女性、[[在日コリアン|在日朝鮮人]]など約1000人（参加者数には800人から3000人まで諸説ある）が参加した。集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などのアピールが採択された。集会終了後、米軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場までデモを行うことになった。集会参加者は[[西国街道]]経由で[[箕面市|箕面]]へ向かい、吹田に南下する「山越部隊」と[[阪急宝塚本線]][[石橋駅 (大阪府)|石橋駅]]から臨時列車を動かし、[[服部駅 (大阪府)|服部駅]]から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動した。人数は山越部隊の方が多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山越部隊は警察予備隊豊中通信所の横を通り、午前2時ごろ[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]豊川村に到着した。ここで山越部隊は「[[ファシスト]]打倒」と称して[[笹川良一]]宅に投石したり、棒きれで玄関の扉を損傷させている。笹川良一本人は留守で、けが人はなかった。休憩後、山越部隊は南下して[[国鉄労働組合]]吹田支部の中野新太郎邸に立ち寄り、庭で竹槍を振り回したり障子を破ったりしたが、けが人はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入ったが、最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要した。駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになった。電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の[[服部駅 (大阪府)|服部駅]]で全員が下車し、旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、[[6月25日]]午前5時ごろ三島郡山田村（現[[吹田市]]山田南）で山越部隊との合流を果たした。この間、警察は電車部隊が梅田駅に向かうと予想し、梅田で警官隊を待機させていたが、電車部隊が服部駅で下車したため行方を見失い、山越部隊についても電車部隊の対応をしている間に見失っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
合流後、デモ隊は南下し須佐之男命神社に到着した。神社前には[[吹田市警察]]や[[国家地方警察]]の警官隊が警備線を張っていたが、警察指揮者との交渉をデモ隊が受け入れなかったため、警察隊は警備線を解き、デモ隊に道を譲った。[[大阪地方検察庁]]は、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、暴力で警備線を突破したと主張して[[騒擾罪|騒乱罪]]を適用した。しかし証拠写真&amp;lt;ref&amp;gt;吹田事件被告団『十年裁判』（[[1962年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;や警察指揮者の証言からデモ隊が暴徒化した事実がないことが明らかになった。また合法的なデモに警察が警備線を張る法的根拠はなかった。このため後の裁判で被告人全員が騒擾罪無罪となることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
須佐之男命神社から南下したデモ隊は、午前6時ごろ国鉄[[東海道本線]][[岸辺駅]]経由で吹田操車場に入った。デモ隊は操車場内で「戦争反対」「軍用臨時列車を止めろ」などのシュプレヒコールをあげながらデモを行ったが、軍用列車は事前に移動させられていた。吹田操車場から出たデモ隊は[[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]]に向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらデモ隊の行動について、検察は暴徒そのものだとしたが、デモを見ていた人たちは「うさぎ狩りのようでした」などという証言もあった&amp;lt;ref&amp;gt;吹田事件文集刊行委員会『「吹田事件」と裁判闘争』（[[1999年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その途中、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負った。また午前7時ごろ[[茨木市警察]]のウィーポン車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げて、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負った。この後、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石した&amp;lt;ref&amp;gt;脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』（明石書店 [[2004年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となった。吹田駅の助役は裁判時に「デモ隊が順調に乗ってくれたので、うまいこといきましたなと駅長とも話していた」&amp;lt;ref&amp;gt;吹田事件被告団『十年裁判』（[[1962年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;と証言している。解散したデモ参加者らは大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとした。そこに約30人の警察官が追いつき、デモ隊と衝突した。これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出た。事件では200人を超える大量逮捕が行われ、111人が騒擾罪で起訴された（被告人の1人が裁判中に死去、1人は韓国に強制送還され行方不明となったため最終的に109人）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察は、警察がピストルによって重傷を負わせたデモ参加者4人を起訴していない。列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市も承認している&amp;lt;ref&amp;gt;吹田事件文集刊行委員会『「吹田事件」と裁判闘争』（[[1999年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお検察は「拳銃発射は暴徒のうちにもこれを行ったものがあり、これら負傷のすべてが警察官の発射した」&amp;lt;ref&amp;gt;横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』（[[1954年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;ものとは言い難いと主張していたが、証拠がなく現場にいた警察官、第三者証人だれも証言していないため、根拠が乏しいとされ裁判で認められなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 裁判 ==&lt;br /&gt;
吹田事件弁護団は後に保守系の吹田市長となった[[山本治雄]]を主任弁護士として結成された。弁護団には国会議員をしていた弁護士の[[加藤充]]や[[亀田得治]]らも加わり、国会でも吹田事件を取り上げて「弾圧」の不当性を訴えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このときの裁判戦術は、'''大衆的裁判闘争'''と呼ばれ、後に[[日本国民救援会]]によって公安事件の闘争方法として定着していくことになる。[[日本共産党]]が路線を転換した[[日本共産党第6回全国協議会|六全協]]以後も、幅広い団体や日本共産党国会議員・弁護士による支援は続けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1953年]][[7月27日]]、朝鮮戦争が休戦。[[7月29日]]に行われた公判の冒頭で、被告人たちは[[佐々木哲蔵]]裁判長に朝鮮戦争休戦を祝う拍手と朝鮮人犠牲者に対する黙祷を行いたいと申し出た。これについて佐々木は「裁判所は止めもしなければ激励もしない、裁判所は中立性を表明する」&amp;lt;ref&amp;gt;石川元也『吹田事件と大衆的裁判闘争』（自由法曹団大阪支部 [[1979年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;と静観した。検察は佐々木の対応を不服とし、保守系議員に働きかけて佐々木を国会の[[裁判官訴追委員会]]にかけた。これがいわゆる'''吹田黙祷事件'''である。訴追委員会は佐々木の喚問を決定するが、佐々木は裁判の公平性が損なわれるとして拒否。[[最高裁判所]]は、全国の裁判官に宛てた通達において、佐々木の訴訟指揮を「まことに遺憾」としたが、司法関係者による相次ぐ反対のため、喚問は行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]][[6月22日]]の第一審判決では騒擾罪の成立を認めなかった。検察は111人の被告人のうち47人を控訴したが、[[1968年]][[7月25日]]の第二審判決でも一部の被告人が威力業務妨害罪で有罪となったが、騒擾罪の無罪は変わらなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注・参考文献==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』（[[1973年]]）&lt;br /&gt;
*李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』（[[1980年]]）&lt;br /&gt;
*西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争 吹田・枚方事件の青春群像』（岩波書店 2004年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[朝鮮戦争]]&lt;br /&gt;
* [[吹田信号場|吹田操車場]]&lt;br /&gt;
* [[笹川良一]]&lt;br /&gt;
* [[吹田市警察]]&lt;br /&gt;
* [[茨木市警察]]&lt;br /&gt;
* [[国家地方警察]]&lt;br /&gt;
* [[自治体警察 (旧警察法)]]&lt;br /&gt;
* [[大阪地方検察庁]]&lt;br /&gt;
* [[騒乱罪]]&lt;br /&gt;
* [[金時鐘]]（この事件の参加者である）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/wakitasuita.htm 朝鮮戦争と吹田・枚方事件]&lt;br /&gt;
* [http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuunanadai 暴力にみる民族的違和感]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{日本共産党}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:すいたしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代戦後の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の暴動事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本共産党の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日コリアンの事件]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--[[Category:在日韓国・朝鮮人の運動]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代戦後の社会運動]]&lt;br /&gt;
[[Category:裁判例]]&lt;br /&gt;
[[Category:1952年の日本]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Fromm</name></author>	</entry>

	</feed>