<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
		<id>http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84</id>
		<title>富士川の戦い - 変更履歴</title>
		<link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84"/>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?title=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;action=history"/>
		<updated>2026-04-21T14:00:05Z</updated>
		<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
		<generator>MediaWiki 1.25.1</generator>

	<entry>
		<id>http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?title=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;diff=24757&amp;oldid=prev</id>
		<title>220.99.39.164: 新しいページ: '{{Battlebox| battle_name=富士川の戦い |campaign=治承・寿永の乱 |image= |caption= |conflict=治承・寿永の乱 |date=治承4年[[10月20日 (旧暦)|10...'</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.81.54.121/mediawiki/index.php?title=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;diff=24757&amp;oldid=prev"/>
				<updated>2008-02-21T12:44:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;新しいページ: &amp;#039;{{Battlebox| battle_name=富士川の戦い |campaign=治承・寿永の乱 |image= |caption= |conflict=&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;治承・寿永の乱 (存在しないページ)&quot;&gt;治承・寿永の乱&lt;/a&gt; |date=&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E6%B2%BB%E6%89%BF&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;治承 (存在しないページ)&quot;&gt;治承&lt;/a&gt;4年[[10月20日 (旧暦)|10...&amp;#039;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{Battlebox|&lt;br /&gt;
battle_name=富士川の戦い&lt;br /&gt;
|campaign=治承・寿永の乱&lt;br /&gt;
|image=&lt;br /&gt;
|caption=&lt;br /&gt;
|conflict=[[治承・寿永の乱]]&lt;br /&gt;
|date=[[治承]]4年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]（[[1180年]][[11月9日]]）&lt;br /&gt;
|place=[[駿河国]]富士川（現・[[富士市]]）&lt;br /&gt;
|result=目立った交戦のないまま平氏の撤退&lt;br /&gt;
|combatant1=[[源氏]]&lt;br /&gt;
|combatant2=[[平氏]]&lt;br /&gt;
|commander1=[[源頼朝]]、[[武田信義]]&lt;br /&gt;
|commander2=[[平維盛]]&lt;br /&gt;
|strength1=20万騎（吾妻鏡）&lt;br /&gt;
|strength2=7万騎（平家物語）&lt;br /&gt;
|casualties1=不明&lt;br /&gt;
|casualties2=不明&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
[[画像:治承4年の関東.png|thumb|350px]]&lt;br /&gt;
[[画像:頼朝挙兵.png|thumb|351px]]&lt;br /&gt;
'''富士川の戦い'''（ふじかわのたたかい）とは[[平安時代]]後期の[[治承]]4年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]（[[1180年]][[11月9日]]）に[[駿河国]]（今の[[静岡県]]）[[富士川]]で[[源頼朝]]、[[武田信義]]と[[平維盛]]が戦った[[合戦]]である。[[治承・寿永の乱]]と呼ばれる一連の戦役の1つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[石橋山の戦い]]で敗れた源頼朝は[[安房国]]で再挙し、進軍しながら東国[[武士]]がこれに参集して大軍に膨れ上がり[[鎌倉]]に入る。頼朝は駿河国で、都から派遣された[[平維盛]]率いる追討軍と戦い勝利し、[[関東]]での割拠を確立させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経過==&lt;br /&gt;
===背景===&lt;br /&gt;
関東は長く[[河内源氏]]の地盤であったが、[[平治の乱]]で[[源義朝]]が敗れたことにより源氏は没落し、東国武士たちは[[平氏政権]]に従うようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
治承4年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]（1180年[[9月8日]]）、[[伊豆国]]に流されていた義朝の三男・頼朝は[[以仁王]]の[[令旨]]を奉じて、舅の[[北条時政]]や[[土肥実平]]、[[佐々木盛綱]]らと挙兵し、伊豆[[目代]][[山木兼隆]]の館を襲撃して殺害した。だが、続く[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]（[[9月14日]]）の[[石橋山の戦い]]で頼朝は[[大庭景親]]、[[伊東祐親]]率いる[[平家]]方に惨敗してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝は山中に逃げ込んで平家方の追跡をかわし、土肥実平の手引きで船を仕立てて[[真鶴岬]]（[[神奈川県]][[真鶴町]]）から安房国へ向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝に味方していた[[三浦氏|三浦一族]]も平家方の[[畠山重忠]]らに本拠[[衣笠城]]を攻められ、城を捨てて海上へ逃れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===頼朝の再挙===&lt;br /&gt;
[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]（[[9月20日]]）、頼朝は安房国[[平北郡]]猟島に到着した。同地で先発していた三浦一族や北条時政らと合流。地元の豪族[[安西景益]]が頼朝らを迎え入れた。頼朝は[[和田義盛]]を[[千葉常胤]]へ、[[安達盛長]]を[[上総広常]]のもとへ派遣。その他、[[小山朝政]]、[[下河辺行平]]そして[[豊島清元]]、[[葛西清重]]父子にも参陣するよう求めた。千葉常胤は直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して[[下総国|下総]][[国府]]を襲い、平家一族の目代を殺したが、[[房総半島]]に大きな勢力を有する上総広常の向背には不安があった。[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]（[[10月3日]]）、頼朝は300騎を率いて安房国を出立。[[9月17日 (旧暦)|17日]]（[[10月7日]]）に頼朝は下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、[[千葉氏]]の300騎を加えた。[[9月19日 (旧暦)|19日]]（[[10月9日]]）に[[武蔵国]]と下総国の国境の[[隅田川]]に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。『[[吾妻鏡]]』によると広常は、寡兵の頼朝にこれほどの大軍を率いて参じればが、さぞ喜ぶだろうと考えていたが、予想に反して頼朝は遅参を怒り、目通りを許さなかった。広常は頼朝に器量なくば、これを討ってその首を平家に献じようと密かに考えていたが、頼朝の威に感服して心からこれに従うことになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9月29日 (旧暦)|29日]]（[[10月19日|19日]]）の時点で、諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]（[[10月22日]]）、頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、[[足立遠元]]、[[河越重頼]]、[[江戸重長]]、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、何らの抵抗を受けることなく[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]（[[10月26日]]）に源氏累代の本拠地鎌倉に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===追討軍の編成===&lt;br /&gt;
頼朝挙兵の報は[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]（[[9月21日]]）に大庭景親より[[福原京|福原]]へもたらされた。[[9月5日 (旧暦)|5日]]（[[9月25日|25日]]）に[[平清盛]]は追討軍を関東へ派遣することを決定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
追討軍の編成は遅々として進まず、[[平維盛]]、[[平忠度|忠度]]、[[平知度|知度]]らによる追討軍が福原を出立したのは[[9月22日 (旧暦)|22日]]（[[10月12日]]）であった。[[京都|京]]に入っても総大将の維盛と次将（参謀役）の[[藤原忠清]]が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があり、京を発したのは29日（10月19日）になってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、[[甲斐国]]では[[甲斐源氏]]が、[[信濃国]]では[[源義仲]]が挙兵していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めて7万騎（『[[平家物語]]』）の大軍となるが、寄せ集めであり、折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しんだこともあって士気を著しく低下させていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]（[[11月2日]]）、追討軍は[[駿河国]]へ入った。[[10月16日 (旧暦)|16日]]（[[11月5日|5日]]）に頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発する。『吾妻鏡』によると頼朝の軍勢は20万騎にのぼったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===甲斐源氏の挙兵===&lt;br /&gt;
治承4年8月頃には[[武田信義]]、[[安田義定]]、[[一条忠頼]]ら甲斐源氏が挙兵して甲斐国を制圧(『[[山槐記]]』)。&lt;br /&gt;
8月25日には石橋山で頼朝を破った大庭景親の弟俣野景久と駿河国目代が安田義定らと波太志山にて交戦した（『[[吾妻鏡]]』）。駿河国へ侵攻し、[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]（[[11月3日]]）に富士山の麓で目代[[橘遠茂]]の3000余騎を撃破。[[10月17日 (旧暦)|17日]]（[[11月6日]]）に武田信義は維盛に挑戦状を送りつけている（『[[玉葉]]』・『[[吉記]]』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2万余騎の甲斐源氏の軍勢は[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]（[[11月7日]]）に[[黄瀬川]]沿いに陣する頼朝の軍と合流した。頼朝は[[10月24日 (旧暦)|24日]]（[[11月13日]]）をもって矢合わせとすると決める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[鎌倉幕府]]の公式日記（ないしそれに準じるもの）の『吾妻鏡』では甲斐源氏に対して頼朝は北条時政、[[加藤景廉]]らを派遣して、その指示のもとに行動していたように記されているが、これは後世の鎌倉幕府による創作であり、甲斐源氏は頼朝とは別に以仁王の令旨を受けて挙兵しており、この時期に頼朝の指揮下に入る理由がなく、そもそも維盛の追討軍の目的は頼朝ではなく、甲斐源氏であったという見方もある&amp;lt;ref&amp;gt;上杉和彦『戦争の日本史 6　源平の争乱』吉川弘文館　p84&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===水鳥の羽音===&lt;br /&gt;
[[画像:Fuji-fujigawa.jpg|thumb|250px|富士川]]&lt;br /&gt;
10月18日（11月7日）に大庭景親は1000騎を率いて駿河の維盛の軍に合流しようとするが頼朝の大軍が[[足柄峠]]を塞いでおり叶わずに逃げ去り、後に頼朝に降参するが許されず斬られている。&lt;br /&gt;
(なお、「延慶本平家物語」では、景親は相模国にいたが駿河に向かおうとしたところ先に駿河を武田信義に占拠されて平家本軍に合流できないところに、東からは源頼朝勢が押し寄せてきたため逃亡することになったとしている。)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]（[[11月8日]]）、伊豆から船を出して維盛と合流しようと図った伊東祐親・[[伊東祐清|祐清]]父子が捕らえられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月20日 (旧暦)|20日]]（[[11月9日]]）、頼朝の軍は富士川の東岸に進む。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によるとこの時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『平家物語』には大将の維盛が武蔵国の住人で戦巧者の[[斎藤実盛]]に合戦について質問したところ、実盛は己ほどの弓の使い手なぞ東国には数え切れぬほどおり、坂東の武者は騎馬に優れ、親が死んでも子が死んでも進む武勇を語り、坂東武者10人に京武者200人がかかっても敵わないだろうと答えて、すっかり士気を萎えさせたという話がある。なお、斎藤実盛がこの合戦に従軍していた史実はなく、この話は東国武士の優越さを誇張するための虚構と考えられる&amp;lt;ref&amp;gt;上杉和彦『戦争の日本史 6　源平の争乱』吉川弘文館　p88&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の[[水鳥]]が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。『平家物語』や『[[源平盛衰記]]』はその狼狽振りを詳しく描いており、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの[[馬]]に乗ってぐるぐる回る者、集められていた[[遊女]]たちは哀れにも馬に踏み潰されたとの記載がある。事実はどのようなものであるかは不明ではあるが、平家軍に多少の混乱があったものと推察される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
収拾のつかない混乱ぶりに忠清は撤退を進言。総大将の維盛もこれに同意して、平家方は総崩れになって逃げ出した。[[遠江国]]まで退却するが、軍勢を立て直すことができず、全軍ちりじりになり、維盛が京へ逃げ戻った時には僅か10騎になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
富士川の戦いは平家武者の臆病ぶりを示す合戦として有名だが、軍記物語の『平家物語』や『源平盛衰記』はもちろん、『吾妻鏡』の記述は誇張ないし、虚構で、水鳥の羽音を敵襲と誤認したのではなく、水鳥の羽音で敵の夜襲を察知し、迎撃の準備ができていなかったので撤退したという見方もある。また、戦力差を考慮して水鳥の羽音とは関係なしに撤退を決めていたとの見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、合戦に勝利した主体そのものが甲斐源氏であり、『吾妻鏡』の記述は治承・寿永の乱で頼朝が常に源氏の中心であったかに装う後世の創作で、実際には頼朝は後方にあって副次的な役割しか果たしていないという説もある&amp;lt;ref&amp;gt;上杉和彦『戦争の日本史 6　源平の争乱』吉川弘文館　p84-88&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この水鳥の羽音に関する各本の異同を一覧にすると以下のようになる。&lt;br /&gt;
*『源平盛衰記』…日付なし、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。&lt;br /&gt;
*『平家物語』…10月23日、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。&lt;br /&gt;
*『[[山槐記]]』…10月19日、平家軍は水鳥の羽音に驚き、自ら陣営に火を放って撤退した。&lt;br /&gt;
*『吾妻鏡』…10月20日、平家の諸将は包囲されるのを恐れていたところに水鳥の羽音がしたので撤退した。&lt;br /&gt;
*『玉葉』…10月18日、羽音の記述はない。開戦前に平家側数百騎の兵が源氏に逃亡したため平家は撤退をした。&lt;br /&gt;
なお、『玉葉』のみ源氏の総指揮官を[[武田信義]]としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===黄瀬川の対面===&lt;br /&gt;
[[画像:taimenseki.jpg|thumb|黄瀬川八幡神社にある対面石]]&lt;br /&gt;
合戦の翌[[10月21日 (旧暦)|21日]]（[[11月10日]]）、黄瀬川駅（静岡県[[駿東郡]][[清水町 (静岡県)|清水町]]）で若い武者が頼朝との対面を願い出た。『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていた。頼朝の挙兵を聞いて[[陸奥国|奥州]][[平泉町|平泉]]から駆けつけた弟の[[源義経|九郎義経]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土肥実平、[[岡崎義実]]、[[土屋宗遠]]は怪しんで取り次ごうとしなかったが、騒ぎを聞きつけた頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い対面がかなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼朝は[[後三年の役]]で[[源義家]]が苦戦していた時、その弟の[[源義光|義光]]が[[官位|官職]]を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に義経はもう一人の兄の[[源範頼|範頼]]とともに[[源義仲]]討滅、平家追討の指揮をとり、[[宇治川の戦い]]、[[一ノ谷の戦い]]、[[屋島の戦い]]で勝利し、そして[[壇ノ浦の戦い]]で平家を滅ぼすことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==戦後==&lt;br /&gt;
頼朝はこのまま平家方を追撃して上洛しようと望むが、上総広常、千葉常胤、[[三浦義澄]]がこれに反対して東国を固めるよう主張。頼朝は東国武士たちの意志に逆らうことができず、また武田信義が駿河、安田義定が遠江を制圧している事実を追認して、自らは鎌倉へ帰還した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、頼朝は[[佐竹秀義]]、[[志田義広]]、[[足利忠綱]]ら反対勢力を討って関東の制圧に専念することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
*上杉和彦『戦争の日本史 6　源平の争乱』吉川弘文館　2007年、ISBN 4642063161&lt;br /&gt;
*桑田忠親 『新編日本合戦全集　古代源平編』秋田書店、1990年、ISBN 4253003773&lt;br /&gt;
*海音寺潮五郎『武将列伝（1）』文芸春秋社、1975年、ISBN 4167135019 &lt;br /&gt;
*石井進『日本の歴史（7） 鎌倉幕府』中公文庫、1974年、ISBN 412200070X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[日本史の出来事一覧]]&lt;br /&gt;
*[[日本の合戦一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:治承・寿永の乱の戦闘|ふしかわのたたかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡県の歴史|ふしかわのたたかい]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>220.99.39.164</name></author>	</entry>

	</feed>